『白描』明石海人
※引用元は正字使用
音は存外に多く深い。人の発する音声をすべて除いたとしても、都会であれば車の走行音が絶えないし部屋の中ではなにかの機器がしじゅうモーター音を鳴らしている。風も鳴っているし虫や鳥の声もする。人工物の少ない場所であれば、風というより森や山じたいが鳴っている、虫や蛙は個体でなくひと群れとしてある、そうした物音に包み込まれることになる。日ごろ絵画や写真などを見る機会があればやっきになって世界の痕跡を汲みあげようとするのだけれども、たぶん私がどこにいたところで、世界には端から音による痕跡がきざみつけられてもいる。
写真ならば印画紙に写し取られる事物は、音声としてはレコーダーに対して記録されることになる。ただ、さきほどのモーター音や風の音は、あるていど〈ノイズ〉として拒まれそぎ落とされることにもなるのだろう。おそらく音にも遠近法のようなものがあって、優先的に再現されるべきなのは人の発話や、重要なできごとなどであるからだ。だからいま身の回りを覆っている音を、この瞬間をなるべくそのまま、起きたままに保存することは難しいはずなのだ。けれど、この歌では「石」がその役割をごくしぜんに引き受けている。その場にあったあらゆる音が、「石」の内部にとりこまれている。「朝の谺」がやんだけれども、石にしみこんだ「音いろ」がある、と書いてあるので、ほんらいは「谺」と石の「音いろ」はべつの音なのかもしれない。ただ、「あれど」が巧妙に倒置のようにみえるから(「音いろ」がありながら「谺」がやんだのではなく、「谺」がやんでも「音いろ」がある……)、初句の「石に凍む」とは、その場にひびきわたった谺をするすると吸収してしまったように思われてしかたない。直接目にすることはできないけれど、ひたしたスポンジの微細な穴や、世の植物が水を吸い上げるときのように、石とは音を吸い込むことができる素材なのだと信じさせられてしまう。
この「石」がさまざまな〈ノイズ〉を分け隔てなくとりこんだように見えるのは、まさしく下句がノイズまみれであるからだ。「今朝の朝の」はあきらかに冗長を企図して書かれているし、「須臾に」(しばらく)もやや屈折している。「鳴りかはし」「熄む」とも、たんじゅんな一往復の谺ではなく、何層にも音が重なって広がっているように見える。結句では音が鳴りやんでいるはずだけれど、どうにも頭のなかでは想像上の「谺」が響いたままになる。ひとたびしみついた「谺」を読者はじしんでは取り除くことができない。そうした悩ましい響きを、「あれど」を経由して上句にもどればその場を不動である「石」がにわかにとりこんで、記録し、記憶してくれる。読者を現実に押し返してくれる。この日、「今朝の朝」に鳴りひびいたなにかの自然の音は、作者によってこうして記録されたとともに、読者もまた同様に読むだけで聞き取ったように感じ、記録したような経験を得ることになる。修辞の上ではきわめてテクニカルな作品なのに、このテクストにおいて起こったできごとはほとんど感情的な追体験、ノスタルジーだといってもよい。