遊園地のテラスにとんぼ現れて回転木馬のほうへと抜ける

鯨井可菜子『アップライト』

 

この歌には形容詞がない、副詞もない。名詞、動詞、助詞の組み合わせでできた一首だからかそっけないような雰囲気があるけれど、そもそも世界はそっけない。そっけない世界のなかに何かしらの意味を見出すことが短歌のひとつの在り方として存在しながら、一方でこの歌のような何らかの結実に向かわない歌の在り方も重要なのだろうと思う。遊園地のテラスでくつろいでいることと、とんぼが現れることには何の関係もない。現れたとんぼの行く先が回転木馬のほうで、観覧車のほうではなかったことにもおそらく大きな意味はない。「とんぼ」というのも一周回ってすごい表現で、アキアカネだとか、翅が透きとおっているとか、突然目の前に現れたとか、そういったディティールが結果的にことごとく避けられた「とんぼ」である。もしくはディティールを与える間もなく言葉になった「とんぼ」である。言い換えれば、認識と言語化との時差が少ない印象を受ける表現だということになる。

アキアカネや翅が透きとおっているといったとんぼのディティールは、光景を認識してから表現に至るまでの時間による熟成が感じられる表現であり、歌のコクにはなるけれど光景の新鮮さからは遠ざかる。翻って「とんぼ」にはコクよりもしぼりたての香りがする。この歌から受ける一度きりの出来事だったという強い一回性の感触はたぶんこのような表現速度による部分が大きいのではないかと推察する。読者の側で「とんぼ」からある一定の季節感や地理的状況を読み取っていくこともできるけれど、個人的にはすっと読んで読者側でもあまりコクを出さずにすっと感じるときにこの歌に関するかぎりは持ち味が出てくるようにも思ったりするのである。また、この歌の主役が「とんぼ」ではなく「ちょうちょ」だったら、そのゆらゆらとした動きに含まれるコクがまったく違った歌の質感を生むのだなあということも考えながら、あらためて主役が「とんぼ」であったことの偶然を賜物のようにも思う。「とんぼ」のそっけなくて、直線的で、意味なさげな動作が一首の表現速度とこのうえなく響きあっていよう。

 

店員に手を引かれたる着ぐるみが段差を降りるまでを見ていつ

 

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