心臓はにがいだろうか ふかぶかと頭をさげて真冬を帰る

村上きわみ『とてもしずかな心臓ふたつ』

 

初句二句で発せられる疑問が目に入るや否や電流が流れた。この歌の二首前に死者を詠んだ作品があるので、「心臓」は人体の心臓であるという流れが自然と生まれてくる。人はある程度の範囲内で人体の味を知っている。血の味、涙の味、唾液の味、鼻水の味、爪の味、髪の毛の味、皮膚の味、だいたいこんなところの味を知っているのだと思う。が、内臓の味は分からない。人体の味を知るときほとんど100%に近い割合でその人体は自分の体である。だから自分の内臓を食べるわけにはいかず、まして心臓は食べてしまったら自分が生きていられなくなる。飲食の記憶をたどればたしかに心臓は食べたことがある。焼き鳥のメニューにはハツというものがあってこれは心臓だ。たしかに食べたことがある。苦くはなかった。しかし、このイメージより先にこちらへやってくるのは魚のワタの苦みで、「心臓はにがいだろうか」を目にしたとき口中にワタの差し込むような苦みが広がる。

あの苦みと人間の心臓の味が読者であるわたしのなかでこんなにも瞬間的に結びついてしまうのかと驚いた。物理的には心臓は苦くないのかもしれないが、イメージの上で言えばたちどころに苦い。魚のワタの苦い部分はおそらく心臓ではない他の内臓のせいだから本来は間違った認識であるにもかかわらず、正確な心臓の味である焼き鳥のハツを瞬時に飛び越えて苦みにミートしてしまうくらいイメージの上で人間の心臓は苦いのだと思う。これは人が生きる歳月によってもたらされる苦みだろうという気がする。

「ふかぶかと頭をさげて真冬を帰る」のは葬儀の後かもしくは生前のお見舞いの帰りということになる。頭をさげて帰りながら心臓の味を想像するのは行為と思考がちぐはぐな感じを受けるけれど、その人に対する思いの深度が心臓のなかにまで達していることを思えばごく自然なものだとも言える。読者の体感としてエキセントリックな電流が真冬の寒さのしびれへと回収されていくところも印象的である。

『とてもしずかな心臓ふたつ』は二〇二三年に逝去した村上きわみの既刊歌集二冊と歌集未収録作品のなかから錦見映理子が編んだ第三歌集をまとめた作品集である。多くの未知の読者にとってもきっと宝物のような一冊になるのではないかと思う。

 

濃紺の時間にくるぶしまで浸りスナック菓子をまた食べている

 

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