『輪をつくる』竹中優子
この人はだれかと話しているのだろうか。たとえば来客があって、フルーツを出したところのように見える。申し訳ない、もったいないという思いが透けている。果物はいっぱんに、食べるまでに皮をむいたり種を除いたりする工程がたいへんだが、そのあと食べきることもなかなか大慌てである。瑞々しくて水分が多いので、思ったよりお腹にたまる。そのうえ高価。同じお茶請けでも、スナック菓子や豆菓子のように小分けのパッケージで少しずつ食べられるわけではない。スイカの一個であれ、処理済みのカットフルーツであれ、その一つの単位を頭のどこかで意識しながら、果物と向き合う必要がある。
それくらいの強い能動性が必要なのに、よく考えれば食欲のないときにこそ果物ならばという気分になることが多く、その戸惑いが、生活における果物を印象深いものにしている。焼肉の網を目の前に置いたときのようなストレートかつ純粋な渇望が果物に対して生まれることは少ない。食べれば甘くおいしいのだけれど、飢えが満たされていくというより、心や脳の気づかないほどの傷つきや痛みをそっと拭っていくような。そして水分で内臓が満たされる。そもそも高い木に実ることからしてそうだ。みずから果物で癒されるまでには、ある種の根気とパワーが必要になる。この人は、目の前に「くだもの」をわざわざ運んできながら、なかなか手を付けていないらしい。たぶんだれかとの会話があり、その会話をさえぎるように、「くだもの」がある。ああ、食べられなくてもったいないとか、手を付けるタイミングがないといった雑念が、会話に対するノイズになっている。対して「くだもの」を食べられないのもまた、会話の中身が重々しい、ぎこちないといった状況を想像させる。食欲がわかないからこそ口にしたくなるような「くだもの」が目の前にあるのに、それを食べることで、何かが裏付けられてしまうような。「くだもの」はテーブルにそのまま置かれ続けている。この場面に対して、決定的な出来事はずらされ、この人の隣の椅子にはもう一つの時間軸のこの人が半透明で座っているように見える。
ずらされた何かの一つとして、全く無関係な「一羽のすずめ」が歌の中に忽然とあらわれている。「すずめ」は基本的には飼われることのない野鳥だから、家の外にいるというほうが自然だろう。いま読んできたような人間の意思行動と無関係に、「すずめ」はたまたま自分のために「くだもの」を運んできたが、ついばんではいないようだ。弱っているのだろうか。もうそこまではいくら覗き込んでもわからないけれど、人間の入り組んだ思考の外にこの「すずめ」がいて、ただ野生の澄んだ瞳をかがやかせているように見える。本当は、食べ物をこの場へ運んできたことだけで、すでにじゅうぶん何かを成したといえるのかもしれない。
