電灯におかしくなったカナブンがいなくなるのを待つ玄関前

谷川電話『深呼吸広場』

 

そうとう待ったのではないかと思う。帰宅してさあ家に入ろうと扉に近づきつつ、異変に気づく。何かが電灯のまわりをものすごい勢いで旋回している。その旋回はときおり電灯自体や壁に当たりばちばちと音を立てている。もう少し寄って正体をたしかめる。蛾にしてはおもたく硬く、蜂でもなく、かぶとむしにしては小さい何か。ああ、かなぶんか、となるまでの時間がこの一首の見えない前段にある。そしてこの前段の時間も家に入るのを止められていた時間であり、玄関前で待たされている時間である。こういう場面に出くわした経験はだれにでもあるのではないかと思うが、あれはもうどうしようもない。帰宅というもっとも疲弊し油断している心身の状態と電灯をまえに展開しているフルパワーの自傷行為とはエネルギー量に差がありすぎる。その差は人間と昆虫のサイズの差をあっさりと凌駕する。はやく家に入りたいけれど、この状態になったかなぶんに対抗する力は帰宅時かつ素手の人間にはない。ただ両手を垂らしてやみくもに繰り返される旋回を見つめるほかにしようがない。

歌のテンションはこのあたりの心理的下ごしらえが完成したところからはじまっている。玄関前の出来事になんだなんだと混乱した状況を経て、かなぶんだと理解しじゃあ待つか、となった沈静から一首ははじまりこの沈静が崩されるこのとのないまま結句へと到る。沈静は余裕となり、その余裕がかなぶんの事情を汲んでいる。そういうときもあるよね、というかなぶんへのうすい同情まで発生しているようにも思われてくる。一方でかなぶんのほうは人間のことなど眼中になく自身の錯乱でいっぱいいっぱいであろう。ここで上述した人間とかなぶんの差が再逆転する。人間の思慮がやみくもなかなぶんを包みこんでゆく。サイズの差がエネルギー量の差によって逆転され、エネルギー量の差が思慮の差によって再逆転される。そしておそらくこの先にはさらなる再逆転というものはない。この歌のなかで思慮のちからというか、思慮による肯定のちからというかがもっとも強いまま終わるところに谷川電話のやわらかさに対する志向がよく出ている気がする。結局家に入れたのはいつだったのだろうか。

 

砂浜に砂の賃貸住宅を建ててだれにも貸さずに壊す

 

 

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