冬が宇宙に怒っている前世のわたしに来世のあなたを紹介されて

『かわいい海とかわいくない海 end.』瀬戸夏子

マッチングアプリにこんなことをされたらそれは怒るだろうなと思う。紹介してほしい「あなた」は来世にあり、「わたし」は前世に取り残されたままで二世代もすれちがっている。これでは出会えるわけがない。宇宙が万物を包含した存在であるなら、こういったエラーもまたつねにどこかに起こりつづけているとみるべきだろう。これだけではない、あらゆるエラーが。この歌の前後関係としては、「前世のわたしに来世のあなたを紹介され」たことで、「冬が宇宙に怒っている」。どう見ても怒って然るべきなのは「わたし」である。「冬」が怒る道理は本当はないのだがここにもエラー=ねじれがみられ、どういったねじれかといえば、「わたし」がいつしか「冬」になりきってしまっていることである。こんなにも声高にみえるのに、私はかすかな降雪のさなかに抹消されている。ならば短歌であることさえも忘れてしまえるだろうか。いや、それができない。脳裏には依然と、荒涼とした冬の風景が残っている。

瀬戸の作風により近しい作品を引くなら、こういったものがあるだろう。

エイプリル・フールが葬儀 帰路、右手に財布、左手に砂糖・糊 うつくしかった
新年の典型的な幽霊をNBAを左右を煙草をふとももで消す

二首引いてたまたま重なったが、〈暦〉とは定型のベースというか、辞書に組み込まれた概念のひとつのように見える。人がどれほどばらばらに生きてもどこかで意識せざるを得ず、共感の土台として互いの感情を結びつけてしまうもの。いっぽうで「エイプリル・フール」「新年」以降の展開が破壊的である。「エイプリル・フール」「新年」からあとは、これほどの音数を使って、それでも何もいわないことを志向している。荷物の少ない葬儀の帰路、たまたま財布だけを持っていることはなんとなくありそうな気がする。しかし「砂糖・糊」の組み合わせはまずない。右手の〈なんとなくありそう〉を左手が食い破っている。また幽霊、NBA、左右、煙草、はそれぞれ短歌のモチーフとしてあり得そうだが、この組み合わせにはとくだんの意味はない。「ふともも」の官能によって、意味が押しつぶされる。

残された葬儀や幽霊の携える悲しみ、それはきわめて濾過された悲しみ、この歌集にこうした悲しみを見出してしまえば、つぎからつぎへと感傷のようなものにとらわれることになる。それは意味をはぐれた感傷である。言葉や短歌には意味があるから切実で切ないのだと思いがちだが、もうそんな理由ができあがるはるか手前に、どうしようもない感傷が横たわっているのではないか。瀬戸の作品に見出すことのできる苛立ちは、そのどうしようもなさ、説明のつかなさにも関わっているのではないか。

月の温度、星の温度、瞳の温度を束ねて輪ゴムをかける指先

この歌の温度は掲出歌に近い。今回この歌集を読みなおしてみて、意外なくらい泣けてしまいそうだった。これは共感ではない。

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