本条恵『星とアスパラ』
アラザンはたまに言葉として目にすることもあるし、ケーキの上にちりばめられているのを目撃することもあって、そのたびにあれは何、という気持ちにさせられてきた。あれがアラザンという名前だということははじめて目撃してからしばらく経って学んだ。が、アラザンは何、というところまで突き詰めることなくまた年月が経っていったのだけれど、今回この歌を取り上げるにあたって調べたら正体は砂糖とデンプンなのだという。それを食べられる銀で覆ったものがアラザンであった。アラザンは基本的にお菓子のデコレーションに使われるから、この歌の場面としてはお菓子作りの最中であるだろう。おおかたお菓子を作り終えて、最後の仕上げにアラザンをちりばめていく。たとえばショートケーキの上にのせられる苺は、あれは装飾でありつつ味わいにとっても重要なものだと思う。あの苺があることでどんどん押し寄せてくる生クリームの甘ったるさを酸味によって調節できる。尖ったほうからケーキを食べ進んでいった終盤にさしかかる位置にあの苺があることの意味は大きい。それに引き換えアラザンはどうだろうか。個人的経験に照らして、アラザンの味を感じた記憶がない。あれはほとんど装飾に特化した製菓材料であるはずだ。あってもなくても味はほとんど変わらないけれど、お菓子をうつくしく仕上げるために使われるのがアラザンだと思うし、それを施しているこの歌のお菓子作りはとてもじっくりとした丁寧なものに思われてくる。
そのうち、ちりばめていたアラザンがお菓子をはずれて床に落ち、その丸みを生かして転がっていく。転がった先は家具と家具の隙間のような、ふつうの掃除では届かないような場所である。「いつかの二月の銀のアラザン」はことさらにうつくしい言葉のつらなりであるように思う。「いつかの二月」は「二月のいつか」よりも遥か彼方にある。月単位の過去ではなく年単位の過去である。いくつか過ぎていった二月のうちの、どれか。それがいつの二月かはもう思い出せないくらいの過去である。しかしそのアラザンがいまも必ず隙間のくらやみに隠れている。極小の、砂糖とデンプンでできたタイムカプセルである。ほんとうのタイムカプセルだとカプセルをひらいてその中身こそ過去を振り返るよすがとなるけれど、このアラザンはアラザン自体が中身であるだろう。「いつかの二月の銀のアラザン」。この下句を読んでいるとき、「きさらぎ」という幻聴が聞こえてくる。「きさらぎ」「ぎん」「あらざん」が混然一体となって響いてくる。さらに、ちりばめられるアラザンは二月の降雪を幻視させたりもする。いつかの二月の核心となったひとつぶのアラザンがきらきらとした無意味をまとって歳月のお守りのようにくらやみのなかに仕舞われている。
砕かれて顔料になった孔雀石の草原としてささめく余生
