赤いからだを皮膚で覆って生きている銭湯にいるだれもだれもが

大森静佳『ヘクタール』

 

なめているうちに色が変わっていく飴玉があった気がして調べたら、変わり玉という名前で今でも売られていた。何重にも違う色でコーティングされた飴で、外側の色がなめられて溶けると別の色がその奥から出てくる。『ヘクタール』を読んでいて、何度となく思い浮かべたのがこの飴のことである。人はふだん人前では服を着ているけれど、銭湯は人前でも服を脱いでいい場所であり、脱がないことには目的を達成できない場所だ。そうして服を脱いだ裸の人びとが目の前にいる。この時点で服の色から皮膚の色へと一色ぶん変化する。この変化だけであれば、特段珍しいわけではなくごく一般的な描写なのだけれど掲出歌ではそこからさらになめられつづけて皮膚のなくなった剥きだしの肉と血が表れる。服の色、皮膚の色、肉と血の色。見れば見るほどに人体という飴玉が色を変えていく。この歌では見るという行為は、目に映すのみならず目玉で対象をなめることにまで発展しているし、銭湯のお湯は唾液のようなぬめりを帯びて一首を浸している。

 

なまぬるい雨ふる朝のきみのその寝顔の下に死に顔はある

 

こういう歌にしても降る雨はなまぬるい唾液となって、たまゆらきみの寝顔を溶かしその奥に潜んでいる死に顔が露出する。銭湯の歌もなまぬるい雨の歌も、それ以上の質感について語っているわけではないのに、何かぬるぬるとした粘性が歌にまとわりついているように感じられ、目玉でなめることのぬめりを超えてこの世の時間そのもののぬめりを思わずにいられない。だが、あらゆるものをじりじりと溶かしていく自然な時間の速度を前提として、体感速度はこれよりもはるかに速くものを溶かしているはずである。ほとんど一瞬で次の色を露出させるくらいの速度感である。だからこそ銭湯や雨といったブーストがかかる環境のなかに人体が置かれているのだろう。この環境にあって、唾液はもはや塩酸の唾液となって瞬時に次の色を出現させる。

掲出歌に戻れば、服の色から皮膚の色へ皮膚の色から肉と血の色へとその色彩は移り変わっていくなかで、その先の色には触れられていない。触れられていないけれど「生きている」はこの歌ではあきらかにあからさまな叙述であり、この一見不用意にも思われる「生きている」の反作用によって一首の最奥に死の色が芽生えている。まだなめている最中で歌が終わっているものの、なめ尽くしたら出てくる最後の色のことを、みんなうすうす気づくように歌が導いている。

 

なめろうはゆうれいの肉少しずつ月夜すずしき舌にのせゆく

 

 

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