再生を繰り返しつつ消えていく記憶といふは身中の熱

『三年有半』内藤明

歌の言葉に、体温のような温かさがある、と感じるのである。

勝ち負けに熱くならざる性分は生来なれば変へる術なし
戦はぬ兵なるわれらいくばくの善行チャリティーをなし絶望を飼ふ
灯台にのぼりて開く両の腕 空と海とは紺碧の壁

内容の面も関係しながら、歌の芯が五句三十一音にしなやかに均されている感じ。熱すぎず、冷めすぎてもいない、という状態は、逆説的だけれど歌に対して客観的な位置に立つことからもたらされるだろう。「勝ち負けに」の「に」、「性分は生来なれば」という運びに、かすかな客観がある。自己という存在はふいに没我的にうまれるのだろうけれど、言葉をあたえられることで、眼前に姿をあらわすことができる。瞬間的に加速度を増すフレーズもあるけれど、どの場面にあっても、全体はひとつの身体として成立しているように見える。

以前にこの連載で記憶は消えるのか、薄れるのかについて考えた(『やがて秋茄子へと到る』の回)。私はやはり単純に消えるということはないのだと考えているけれど、「再生を繰り返」すことが、記憶という状態の核心をついているだろう。短期記憶、長期記憶と分けられるように脳をストレージに喩えれば「記憶」は仕舞われてそれきりであっていいはずなのに、「再生」という機能が不可分に付きまとっているのが「記憶」である。再生されるならばその存在を認めることができ、そうでなければ人間の認識の上では、記憶は存在しないことと同義である。いっぽうで無意識という、認識されないが存在しているという概念がある。人間という存在は意識と無意識にまたがって存在しているということだと思うが、そのそれぞれが同時にあるということは、やはりどこか動的な性質をともなっているのではないか。その動的な性質のあらわれが「再生」であったり、あるいは「熱」であるだろう。「熱」はひとところにとどまるものではなく、エネルギーとして移動を遂げるものである。身体の中でも、頭や胸にあるばかりでなく、何かの経路をたどって胴や手足へと動いているのかもしれない。身体自身もまた、地点を移動してゆくことができる。「消えていく」ように見えても、身体の外へ転移して保存されているということもありうるだろう。内容と比喩が見分けがたいほどに溶け合って、しかもいくばくかの動きを伴ってみえるとき、ちょうど人がどこかから授かった体をおごそかに動かしてみるような出来事が言葉にも起こっていると見え、そこには生命の火のような温かみがやどってみえる。

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