澤村 斉美


母性とふ地下水脈のみつからぬ身体にまぼろしのリュート抱きしむ

浦河奈々『マトリョーシカ』(2009年)

「母性」と呼ばれるものの中身を説明するのはむずかしい。広辞苑には「母として持つ性質。また、母たるもの」とそっけない記述がある。それはその通りだが……。浦河奈々の『マトリョーシカ』には、母性とは何なのか問い、自分の中に母性を探る歌がたびたび出てくる。

 

  クラナッハの乳房かなしも母性とはをみなに具はる性にはあらず

 

ルネサンス期のドイツの画家クラナッハは、乳房は小さく、腰がくびれ、ほっそりとした独特のプロポーションの裸婦像を描いた。画家の求める肉体の「美」を形にした裸婦像を「母性」と結びつけることは難しい。作者は、その絵を見ながら「をみな」という性に母性が具わっているわけではないことに気がつく。ただ、そんな裸婦像の乳房について上句で「かなし」とするところに、作者の無限の問いかけがある。女らが、母となり子に乳をのませてきた「乳房」。それが母性と切り離されるとき、「乳房」の存在とはいったい何なのだろう、と。

 

掲出歌は、自らのうちに「母性」という「地下水脈」、つまり、あるはずだと思われる(が探り当てられていない)「母性」がみつからないという。「みつからない」と述べることは、果たして「母性」への希求なのか、欠落感の表明なのか。その両方なのだろう。「女」という体をもつからこその割り切りがたい思いが、下句「まぼろしのリュート抱きしむ」で、かなしみを伴って抱きしめられている。「リュート」が、それを奏でる人の抱くような姿勢を思わせ、古楽器の音色とそれに合わせて歌う人の心あふれる声を思わせる。