花山周子


上條素山/さやさやと生存圏を拡げつつ浮かぶや宙に愛のピカチュウ

上條素山 「外大短歌第7号」(2016年)


 

私はピカチュウについて、「ポケットモンスター」の主人公のそばにいるナゾのかわいい黄色い生物というイメージしかないのだけど、そして、私が「ポケットモンスター」のアニメをちゃんと見たとして、またはゲームをやったとして、そのイメージがいくらも更新される気がしないのだが、そういうピカチュウだからこそ私にはピカチュウが平成という時代が生んだ象徴的存在のように見える。

 

今、ウィキペディアで調べてみたら、ポケモンはゲームからスタートしてるんですね。そんなことも知らなかった。1996(平8)年にゲームボーイ(なつかしい!)用のソフトとして開発され、翌1997(平9)年にアニメ化されている。平成元年生まれの子供たちがちょうど小学校4、5年生になる頃だ。私は既に17歳で、ピカチュウとはまったく接点がなかった。私が子供の頃にリアルタイムで親しんだアニメと言えば、ドラゴンボールが筆頭(私というより二歳下の弟だけど)で、それに当時は夕方の時間帯にアニメの再放送を年中やっていて、デビルマンとか、ど根性ガエル、ルパン三世、未来少年コナン、シティーハンターなどなど昭和末期に生まれたアニメも日常的に享受していて、そこに、平成のちびまる子ちゃんが登場してきたり、いずれのアニメも、好き嫌いは別にしてキャラクターの顔や作者の絵の特徴が濃くはっきりしていて、すぐわかる、のに比べて、ポケモンの絵柄というのは、かわいいけれど特徴がない。殊に人間の顔は粗雑で、髪型くらいしか見分けがつかない造形となっている。クセがないぶん、誰にでも受け入れられる。この「クセがない」が平成を考えるとき案外ミソなんじゃないか。平成という時代はいろんなものを洗練していく過程を個の「クセ」を削ぐという方向で推進し、それによって最大公約数的なものを生産していった時代なのではないか。さらにそこに、外部から改めてわかりやすいキャラ設定をあてがうという、いわば逆算的に人工的な個性が生成されてゆく。無意識的なものがどんどん表面化され、自覚され、客観化されるとき、個性はもう個性ではなくよくできた生産品になり、共有物になり、量販品になる。

 

さやさやと生存圏を拡げつつ浮かぶや宙に愛のピカチュウ

 

この歌を読んだときすごい歌だと思った。
ここにはもはや、人間がいない。ピカチュウという表面化&平面化の結晶のようなキャラクターが生存圏を拡げてゆく。SF的な世界観(SFに全く詳しくないんだけど)をはるかに更新して、ベタ塗りの平面世界に浮かぶのは「愛のピカチュウ」というどこにも陰のない光る物体。「浮かぶや」というような反語さえ、ここでは表面的に選択された真っ白な威力を持つ。「さやさや」というオノマトペが不思議な遣われ方をしている。ふつう、「さやさや」というと風がやさしく草に吹いているようなイメージがあるけれど、この歌では「生存圏を拡げつつ」にかかる。ここでは「風」という自然現象さえがなくなって、摩擦や抵抗が全く生じずに平面世界が健やかに広がってゆくような新規の使われ方をしている。パーフェクトだと思う。そして、短歌という、これまではどちらかと言えば、人間の思いの湿度とか、野暮ったい格闘の痕跡とか、そういうものをこそ定着し、また評価もされてきた詩形において、ほんの少しの陰影も持たない「愛のピカチュウ」のかわいさ、「ピカチュウ」って名前もかわいさがすごいよね、が、このように主体化されるとき、何か怖いものを感じる。人間のエゴが行くところまで行ったとき急に世界が反転し暴かれた明るさ。そこには量販品のかわいいピカチュウだけが残る。この歌は、また、2月1日に紹介した工藤吉生の歌

 

腹をもむ いきなり宇宙空間に放り出されて死ぬ気がすんの

 

を思い出させる。ここではエゴの塊そのものが、肉体として宇宙に放り出されてしまっているわけだが、そのぶん人間存在のどうしようもない濃さ、みたいなものが紛れようもなく黒く世界からはみ出して、つまりその肉体を抱える精神が残ってしまっているのだ。けれども、ピカチュウの歌では、苦しみも恐怖も悲しみもない。すべてがアッパーでハッピーな世界に塗り替えられ、「宙」と「ピカチュウ」のチュウチュウと、ただただかわいさだけが広がっている。

まるでこの二首は平成末期の日本社会を象徴する陰と陽みたいだと思う。(つづく)