花山周子


工藤吉生
腹をもむ いきなり宇宙空間に放り出されて死ぬ気がすんの

工藤吉生「人狼・ぼくは」『短歌研究』2018年10月号


 

「腹をもむ」の初句切れがすごい。寸胴のお腹の肉のたっぷりとした感触がここにある。そして、一字空けによって気圧が変わる。「いきなり宇宙空間に」というものすごい圧が身体にかかって、「放り出されて死ぬ気がすんの」はスローモーションで肉や皮膚のぶるぶるとした弾力が真空の世界に浮かぶ。

 

なんてかなしい歌なんだろう。
「腹をもむ」に感じられる贅肉の存在は、人間の煩悩の塊だ。そういう煩悩の塊が、人間界をはるかに見下ろす宇宙空間に肉体として放り出されてしまう。そして、「死ぬ気がすんの」という、死んでしまうんじゃなくて、そこに至ってもまだ、「死ぬ気がすんの」という、実感の乏しさ。もちろん、これは、歌全体にかかっている言葉なので、腹をもんでいたら、そういうふうにして「死ぬ気がした」ということなんだけど、一字空け以降のこの歌の言葉にかかる異様な圧は、もうこの肉体をそこへ連れて行ってしまっている。
腹をもんでよぎった感覚が、肉体を通すことで本当になってしまったような、「すんの」と言っているときにはもう取り返しのつかないような、皮肉さがあるのだ。

 

つまりこの歌では、この人の暴力性や欲望が自分の身体=文体と一体化している。
前回までの歌の、システムに落とし込むために歌の定型に定着させていく、という、外部から(認識する側から)の行為においては、歌の定型が定型としてしか見えてこなかったものが、ここでは文体そのものが行為になり得ているのである。そして、けれどもそれが、「宇宙空間」というたった一人の場所で実現していることがかなしいのだ。工藤吉生にとって、人界のあらゆるものがシステムでしかない、という現状は変わらないのだろう。

 

昨日、娘が玉置浩二の「田園」を大声で歌いながら帰ってきて、ドアをあけ、「おかしいと思うのよ!」と言った。「ビルに飲み込まれ 街にはじかれて、って、おかしいでしょ、ビルのなかにいたら、街からはじかれないよねえ!」
確かに。私は「ほんとだね」と言いながら考えてみた。そういうこともあるんだよな、と思った。

 

 

今日の一首は、これで終わりだけれど、実をいうと私は、三回にわたって工藤吉生の歌について書きながら、ずっと後ろめたさのようなものがあった。批評という行為そのものに暴力性は多分にあるわけだけど、歌から、その人の欲望や心理構造を分析していくというのは、人格批評にも抵触する行為でもある。私はそれをやってしまっていたし、やってしまっているからには、どうして自分がそこまで踏み込んだのかを、私自身の歌の評価がどこにあるのかを少なくとも作者である工藤さんには伝えなければいけないと思っていた。そして、ふだんの原稿であれば、分量的にそれが叶わないことは多々あるけれど、ここではそれができる(いつも一首鑑賞という場を逸脱してしまって、ごめんなさい!)。

 

歌が「言葉」と「意味」の世界に特化されていくという過程は前衛の頃からはじまっていたし、あるいは和歌の時代でも、古今集などにその傾向は顕著で、短歌はいつも、「意味」と「理屈」の世界と「実感」だとか「写実」といわれるようなものの間を往還している。その間を繋いでいるのが、おそらく「心」とか「思い」とか「感情」というようなものなんだけれども、それにしても現代短歌がこれほどに「言葉」と「意味」に収斂していくのは、生活や風景や文化そのものの平坦化が関わっていて、それが仕方のないことであるだけに、深刻な問題なような気がしていた。

 

そして、昨年の「短歌研究新人賞選考座談会」で加藤治郎が、工藤吉生の「この人を追う」一連に対し、

 

・短歌形式を通じてその思想や思索、批評があって、良くも悪くも短歌的です。

 

と言っているのを見て、衝撃を受けたのだ。
いつの段階から、こういう歌が「短歌的」と呼ばれるようになったのか。「意味」に特化した歌においても、そこに「情感」とか「リリシズム」というものは、それなりに含まれていて、それが、「狂歌」とは違う「短歌的」なるものをある程度、担保していたのであった。けれども、工藤吉生の歌は、一回目で私が書いたように、寧ろ「短歌的情感」というものに対して、極めて挑発的な作品であるのではないか。

 

さらに、加藤は、

 

・柔軟な文体で暗喩が巧みだ。
・この人のレトリックは地味ながら、短歌的な巧さを感じます。

 

と言っている。けれども私は工藤吉生の歌に「うまさ」はあるけれど、それが短歌的な修辞としての「暗喩」のようには見えなかった。文体も柔軟というよりは寧ろ、定型を「箱」として使っているような「規格品」のような印象があった。
工藤吉生の歌は、手段と目的が歌作という行為と合致していて、そこに余情を生まない。
そして、私はそのことのほうに寧ろ工藤吉生の歌の意義があるように思ったのだ。

 

私は「言葉」と「意味」に特化されていく現代短歌の成り行きを基本的にはいいと思っていない。例外はいくらでもあって、いいと思うことはあるけれど、それにしても、いいと思わないというよりは、さびしくなるのだ。同じ短歌作者として、私が目指しているものは寧ろ、そのさびしさにいたくないということである。いろんな人がいろんな感情をもって生きていること。いろんなものがいろんな色彩を持っていること。そういう多様さのなかに自分の歌を置きたいという気持ちが強い。「言葉」と「意味」だけの世界にしたくないという、そこに私の動機の一端がある。

 

けれども、工藤吉生の歌には、その徹底度において、ちょうど私の歌とは真逆の「動機」が顔を出していたのである。ここには本気の「反逆」があった。だから、工藤さんの歌は私の心を衝撃というかたちで動かしたのだと思うし、「言葉」と「意味」の世界の、殺伐とした、無味乾燥な、身も蓋もなさ、が、ここに顕在化され、「言葉」と「意味」以外の世界を逆照射し得ているのだと思う。そして、工藤さんはそういう場所からの文体を獲得しつつあるのではないか。