山川藍/履歴書の写真がどう見ても菩薩いちど手を合わせて封筒へ

山川藍『いらっしゃい』(角川書店・2018年)


 

前回に引き続き、女性歌人に見られるユーモアについて触れる。11月10日に行われた「短歌人」東京歌会研究会で発表された、花鳥佰(かとり・もも)による「女性歌人の歌に見られるユーモア」のレジメのなかで若手の作品として引かれていたのが、掲出歌の山川藍と田口綾子だった。

 

掲出歌も一読笑ってしまう読者も多いだろう。「履歴書の写真」は自分の証明用写真だろう。つまりどこかの求人に応募しようとしている。それが「どう見ても菩薩」だったので、「いちど手を合わせて」から封筒に入れたのだ。履歴書の写真は他人のもので、封筒に戻す際に思わず手を合わせたという読みも一応可能だが、そうするとユーモアの質は明確に異なってきて、結構不謹慎な歌になってしまうからこれは違うだろう。「どう見ても菩薩」に客観的な観察と自虐が入り交じり、「いちど手を合わせて封筒へ」は今回の応募が上手くいきますようにとの祈りでもあり、多くの日本人が幼少時からすりこまれている神仏についての素朴な反応でもある。

 

 

妻となる人と夫となる人が同じ売り場にいてうざいです
友達の産んだばかりの子のしゃっくりが聞こえる電話の奥 いらっしゃい
火葬場に向かう猫入り段ボール「糸こんにゃく」とあり声に出す
いま起きた二分後にもう駅にいてバッグにブラジャーが詰まってる

 

 

レジメに挙げられていた山川の歌からいくつか挙げてみた。1首目の「売り場」は作者も働いている場所だろう。結句の「うざいです」が言ってみれば一首のオチのような働きをしている。「うざい」理由はラブラブだからとか、周囲がいろいろと気を遣わざるを得ないからなどが想像できる。2首目は「電話の奥」から「友達の産んだばかりの子のしゃっくり」が聞こえてくる状況そのものが微苦笑を誘うが、さらに結句の「いらっしゃい」に人間としての愛情が見える。その微笑ましさが心地よい読後感を生み、上句の微苦笑をさらに増幅させている。3首目も、飼っていた猫を荼毘に付すときに猫の亡骸を収めた段ボール箱がもとは糸こんにゃくが入っていたものだった取り合わせそのものは微苦笑を誘うが、状況的にはもちろん笑ってはいけない場面である。そこが2首目とはあきらかにユーモアの位相の異なるところだが、落差に妙味があるのは間違いない。結句「声に出す」も作者の心が動いたさまがよく出ていて、リアリティの確保に大きな役割を果たす。4首目は実景かどうかはどうでもよく、カリカチュアされた自画像と読む。

 

これらの歌を見ても確かにユーモアを狙っているところはなくはないが、どちらかというと笑いを取りにゆくものではない。山川は島田修三の影響を強く受けている印象が強いが、島田の歌によく見られる諧謔と毒の要素ともまた異なる。山川の歌に流れるユーモアは、自身の作者像を構築するための重要な要素なのだと思う。そこに読者へのサービス精神が漂う点は田口綾子も共通するが、田口の場合は山川ほど徹底されてはいない。いい悪いやどちらをより評価するといった話ではなく、これは作家性の問題である。

 

 

まばたきのあひだおまへは寝てゐると睡魔に言ひ聞かせつつシャワーを  田口綾子『かざぐるま』
「女御」の読み問へば「おなご」と答えゐて一枚めくればそこには「あねご」
踏まぬには跨ぐほかなし朝五時の寝息を立て続ける同居人

 

 

比較という意味もこめて、レジメに挙げられていた田口の歌も何首か挙げた。文体の差はあるが、共通するのはこの世の悲喜劇は人間が作り出しているという認識である。ゆえに自者他者を問わず人間をよく観察し、一首のなかでいきいきと描こうとしている。その人物が起こすエピソード、あるいは人物と作者との関係性が歌になり、ユーモアを醸し出す。

 

前回の齋藤史の歌に関してユーモアの源泉は余裕という主旨のことを書いたが、山川や田口の場合はそこまでの余裕は感じない。これは年齢や経済を含む生活環境によるものが大きいから、同じものを求めること自体酷な話である。むしろ自分を含む人間に対する関心と愛情と考えた方がしっくりくる。逆に言えば、余裕のかわりに苦みが入ってくる。

 

先に挙げた花鳥の発表では、女性歌人はたとえば春日真木子や米川千嘉子などのように、年齢を重ねることでユーモアが入り込んでくることが多いとの見解が出された。これは前回齋藤史の際に述べた理由と重なる。

 

では、山川や田口のような世代にユーモアを多く含んだ歌が見られるようになったのはなぜか。断っておくが、この世代が皆このような歌柄なのではない。あくまでひとつのスタイルである。背後に世相や経済的な閉塞感があることは間違いないだろう。ユーモラスさを通して深刻さを捉える、あるいは笑いのめそうとする精神性、もっと言えば怒るのを通り越して笑ってしまったり笑わないとやってられない側面もあるかもしれない。そうした要因が複雑に絡みあってできている歌は、紛れもなく現代の空気を如実に反映している。