生沼 義朗


齋藤史/携帯電話持たず終らむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか

齋藤史『風翩翻』(不識書院・2000年)


 

5月16日の森岡貞香の項目で触れたように、自分の所属する「短歌人」の東京歌会では2ヶ月に一度、歌会終了後に2時間ほど短歌作品を読み合う研究会を行っている。11月10日の日曜日にも行われ、花鳥佰(かとり・もも)が「女性歌人の歌に見られるユーモア」のテーマで発表した。

 

 

来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言うものを  大伴坂上郎女 『万葉集』巻四・五二七
相思わぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後へに額づくがごと  笠郎女『万葉集』巻四・六〇八
たよりなき心に臥せる昼の吾をひよいと飛び越えてゆきしは猫ぞ  安立スハル『この梅生ずべし』
ふるでらの大鬼瓦のずり落ちてきはせぬかと旅人不安  森岡貞香『黛樹』
「犬のひとり歩きはいけません」と大看板ひとり歩きの犬ぞ恋ほしき 酒井佑子『矩形の空』
兎がいま食べてゐるのは『草の庭』紐栞なり。一寸のこる。  花山多佳子『木香薔薇』
カツ丼とおやこ丼とはちがふから慌てずに見よどんぶりの柄  池田はるみ『南無 晩ごはん』
辞めたさの話をすればむちゃくちゃにウケられているわたし、噺家  山川藍『いらっしゃい』
係り結びを熱く語りて帰り来ぬクリーニングのタグつけたまま  田口綾子『かざぐるま』

 

 

今回の発表が女性歌人に限定された理由は、ジェンダー論などの見地からは充分に説明がされなかった印象が個人的にはあるが、男性歌人との比較を含めるととても2時間で終わる内容ではなくなるので、致し方ないところもある。それはさておき、当日配布されたレジメには、『万葉集』から現在に至るまでのユーモアを感じられる女性の歌が多く挙げられていた。そのなかから1人1首を自分の好みで抄いた。掲出歌もその際に配布されたレジメに引用されていた歌のひとつだ。選定の基準はあくまで花鳥が読者の立場でユーモアを感じた作品なので、違う意見を持つ人もいるかもしれない。個人的意見を言えば、意識されたユーモアか、図らずも醸し出されたユーモアかは分類上重要な要素だと思う。

 

レジメに挙げられた現代の歌人では、齋藤史や池田はるみ、山川藍は意識されたユーモアだが、三者の位相はかなり違う。齋藤に関しては後述するが、池田は読者を笑わせようとするよりは生まれ育った大阪の風土や文化を詠むなかで包括的に笑いやユーモアの要素が含まれてくると考える。たとえば安立スハルは見たもの感じたものを自分の感覚に忠実に表現しており、歌の作り方は奥村晃作と近いものがあって、ユーモアは副産物といっていい。森岡貞香や酒井佑子も場面の切り取り方や言葉の斡旋が読者の微苦笑を誘うのであって、やはりユーモアは副産物といえる。花山多佳子もユーモアや読者を笑わせることを狙っていない点は共通するが、森岡や酒井との大きな違いは花山は誰が見ても変だったり可笑しく感じる景色を描いていることだ。言ってみれば、森岡や酒井は素材を歌の形にしたときに図らずもユーモアが醸し出されるのに対し、花山は素材そのものが図らずもユーモアを醸し出している。

 

齊藤史もまた老いの歌やユーモアといった文脈でよく引用される歌人のひとりで、ここをクローズアップすることは齊藤史の歌を語る上でどの程度有効かは踏まえておく必要はあるが、今回はそれはひとまず措いて掲出歌を見てゆきたい。

 

齊藤史晩年の作品で、作品が作られたのは80歳代だろう。意味にわからないところはない。携帯電話が普及してきて、周囲からも持つように勧められていたのかもしれない。ちなみに『風翩翻』が刊行された2000(平成12)年時点の携帯電話の普及率は78.5%だった(現在は95.7%)。初句二句の「携帯電話持たず終わらむ」に自分の年齢と覚悟が滲み、三句以下の「死んでからまで便利に呼び出されてたまるか」に急速な時代の変化への多少の戸惑いと、今までそれで困ってこなかったのだから今さら時代の変化に合わせる必要もないだろうという矜恃が交錯する。

 

齊藤は老いへの向き合う方法のひとつとして諧謔につながるユーモアを使っているが、諧謔にありがちな毒が歌に見られないのが大きな特徴で、否応なく自身に迫ってくる老いを軽やかにかわしてゆく印象がある。それが齋藤の老いの歌の魅力につながっているのは間違いないが、その出所はひとえに余裕である。年齢を重ねることで対象の捉え方や距離の取り方にバリエーションが出てくる。それが老いをかわす詠いぶりにつながり、ユーモアを醸し出す余地を産んでいる。

 

山川藍や田口綾子などの若手女性歌人の歌のユーモアについても触れたかったのだが、長くなったのでいったん切って、次回に続きます。