永井祐/パーマでもかけないとやってらんないよみたいのもありますよ 1円

永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(2012年・book park)


 

前々回、私はこの歌のほぼ文体だけを見ながら書いていた。というか、ここのところずっとほぼ文体だけを見て書いていて、それは、文体やその構造が伝達しているもののほうを見ないと書けないことだったからなんだけど、だから歌の意味内容のほうはよくわかっていないというか確定できないまま書いていることのほうが多かった。『光と私語』のときにリアルについて、表現のリアルというものは読者に与える「負荷」という「喩」なんだ、みたいなことを書いた。この「負荷」は文体の話と切り離せないし、私は優れた歌は文体自体が何かを伝達する「喩」として機能していると思う。それはたとえば歌謡曲のメロディーみたいなもので、歌詞がなくてもその旋律は既にさまざまなものを伝達している。その旋律に合わせて歌詞が乗ることで、一層伝達が強化されたり、あるいは歌詞はデタラメでも旋律によってなんかわかってしまうみたいなことはよくある。人が告げる言葉が意味内容以上に、その声音とか物言いで違うものを伝達することもよくある。短歌の文体もそれに似ているところがあるし、それを言葉でできている歌で実現できているってすごいことだと思う。

 

だから、東直子さんの、

 

毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡

 

は、意味内容だけ取り出せば、「妹」と言っている人はお兄さんでもお姉さんでもどっちでもいいんだけども、文体からすればお姉さんだよなと思う。もっと言えば、お母さん的だと思う。「妹」の寝姿へのくすぐるような感度が文体には脈打っていて、「楡」はそういう子供の「寝姿」に対する「ときめき」そのものではないかとさえ思う。それで、でもそういうふうにシチュエーション(この場合の意味内容)を決めつけてしまうよりかは、私はこの歌のくすぐるような感度と楽しさ、詩的なイメージの鮮烈さをただ味わいたいと思うし、文体もまた自由に味わってシグナルを同時に発信している(これ、逆に自由に味わうなシグナルを発信している文体というものも存在する)。

 

あるいは前回、生沼さんが書いていた、

 

草原に疎開児童のひとり居り草の中にて家思ふらむ 小杉放庵

 

掲出歌の読後感からは不思議な静謐さを受け取る。この静謐さが結果的に戦争に対するメタファーとしても機能している。作者がそこまで考えていたかはこの際関係ない。静謐な場面とそこからもたらされる静かな抒情と、背後にある戦争という悲惨な現実との対比が掲出歌を忘れがたい一首にしているのだから。

 

これ、なるほどなあと本当に感心してしまったんだけど、この歌の文体の静謐さそのものが戦中という時代の中に置かれるときには確かに一つのメタファーとして見えてくる。生沼さんが言うように、それは作者自身が意識している如何に拘わらず、作者の心の有り様が戦争という時代に乗らない文体となっているのだと思う。

 

それで、永井祐の歌だけど、「1円」がどういう「意味」で置かれているのか、私はよくわからない。わからないままのなんか知らないけど「1円」という面白さがあって、このセリフの溜息まじりの投げやりさと、「1円」の組み合わせ、これがたとえば「10円」とか「100円」とか「千円」とか「1万円」とかだったら、こんなにぴたっとスロットみたいにはならなかったと思うから、そこから考えるのもまた面白いし、ほんとは、1月19日の北沢郁子の歌と、1月21日の中野昭子の歌のときに書いた「金額」という「共有手形」の話でも関連させて書いてみたかったんだけど、それはそれとして、これまでには一人でいろんな読み筋を考えて楽しんできた。そのなかで、「パーマでもかけないとやってらんないよみたいのもありますよ」としゃべりながら(思いながら)歩いてきて、地面に「1円」が落ちていた。という実景読みがありまして。この読みを提出すること自体かなり野暮だと思うんだけども、私の論のための我田引水によって、今度改めて、この「落ちていた1円」読みでもう一度、クオリアで書かせてもらうかもしれません。という今日は予告です。