前田康子のアーカイブ

人として生れたる偶然を思ひをり青竹そよぎゐる碧き空

店頭に積まれたゼリー透きとおり桃の欠片(かけら)を宙に浮かべる

母の顎に一本のひげが伸びてきぬをかしくもある老い極むるは

指先より冷え初むる朝ポケットの切符の稜(かど)の尖りたしかむ

子の学費払い終えたるビルの狭間篠懸の刈られいるを仰ぎつ

真鍮の分度器はつかに曇る朝母よあなたは子を見失う

自らの力出す如く焼かれゆくフライパンの中の一片の肉

この路をすきとほらせよ車椅子みづいろなればさかなもよりく

枯れすすきドライフラワーであることに気付けり風にふわふわ揺れて

残し置くものに未練はあらざれどうすきガラスのこの醤油差し

せとものゝひゞわれのごとくほそえだは淋しく白きそらをわかちぬ

駄菓子屋はグラジオラスも売りていき裏に小さき畑をもてば

秋風に見つつかなしも蟹ふたつ相寄り激流に沈みゆきたり

おしまい。と夕ぐれが云う窓が云うアイロン台の脚を折るとき

夜の路抱(だ)き歩みせし兒の足袋のぬげたる足の冷たかりしも

熱もたぬ夕赤ひかりしたたれり馬刀葉椎のしみらの葉群

うなだれし秋海棠にふる雨はいたくはふらず只白くあれな

遠山の時雨にしづむ昼つ方われと暮らしてさびしいか君

ねこじやらし穂のふはふはを手握(たにぎ)ればぬくし秋陽を溜めたる穂先

四ツ橋筋に欄間屋ありてうつくしき欄間の彫りにひびく街音

朝くらき花屋の土間に包まれて仮死せるごとき白百合の束

馬鹿げたる考へがぐんぐん大きくなりキャベツなどが大きくなりゆくに似る

一口のパンが喉(のみど)を通った日私は真紅の薔薇になった

窓ちかく朝顔の苗うゑてまつ病みてゆけざる海のいろの花

ゆつくりと朝の机を拭き終へて場所が居場所に変はれる不思議

ブルーシートの青は食欲失くす色 三年を褪せることのなき色

両の手を垂れて液体のごとき吾か夜半に明るき小園にをり

子の夢に見られゐるわれ夕闇に螢ぶくろを提げてあゆめば

ひとりゐて魚焼きをれば魚の眼の爆ぜてこぼれぬしづかなる日よ

戦ひに敗れてここに日をへたりはじめて大き欠伸をなしぬ

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